スタコラ:2014-03-24

マラソンクラブは、いつも宴会

2014-03-24
柿本

私は、とあるマラソンクラブに所属している。 月に一度あつまってどこかを走るのが主な活動内容だ。 このクラブでは、各々の走りが終わると自然に宴会が始まる。 手作りのお惣菜を振舞う人もいる。 ありがたく食べる。 うまい。 あれ? マラソンとはもっとストイックなものではなかったっけ?

私たちはマラソンや駅伝があると、応援したくなる。 テレビ中継を見ていると自分のことのように燃える。 大きな大会だけではない。 幼稚園のリレー競技にすら、手に汗握る興奮を感じることができる。 なぜだろう?

それは、走るという行為の中に、それぞれのゴールに至る人生ドラマを感じているからではなかろうか。 つらい日々の練習は、きっといい結果をもたらすだろうし、当日の時間配分やメンタルの強さ(弱さ)は、その日の走りに大きく影響するだろう。 ひとつの走りは、自己とのストイックな戦いであり、いつも人生の縮図である。

そんな人生の縮図でもある大切な、神聖な走りがいつも宴会になってしまっていいのか? 私の入会当初の不純(?)な短期目標、「ダイエット」すらこれでは達成できないではないか!

いや、これでよい。以下に理由を示す。

じつは会長をはじめ、このクラブの多くのメンバーは70歳以上なのだ! 40代の私はこの会ではまったくの若手。 昨年の忘年「走り会」でひとっ走りのあと、汗でぬれたシャツのままあお向けに寝ていると「ちょっと、そこのボク!おなかが冷えるからジャンパーかけときなさい」と、女性会員に注意された。 完全に子供扱いである。 でも、ありがたい。 手作りのお惣菜も、世代的に私の「母の味」。 うまいはずだ。

走りは人生の縮図である、と書いた。 このクラブでは、縮図どころか、会員のリアルな人生の「いま」を持ち寄って喜びあっている。 それは走りのひとつの究極の楽しみ方を具現していると思う。 走ることは、生きることであり、生きることは、楽しむこと。 だから、元気に走って元気に食べる。そして飲む。宴会はこのクラブには欠かせない要素なのだ。

楽しい企画は宴会だけではない。 喜寿、傘寿、米寿と、年を重ねると会からお祝い金が出る。 「あと5年、生きれば、会費の分、取り戻せますよ!」会長がそう言い、みんながゲラゲラ笑う。 そのやり取りは、なんとも軽やかであった。 私はスポーツだけでなく人生をどう楽しむかというヒントをここで教わっている気がしている。

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